その若い男の構えぶりを見て、初老の剣客は嘲笑を肺腑に押し殺した。
――なんだ、その様は。
肩はがちがちに固く強張り、
眼は血走るほど正面を凝視し、
膝はけたけたと笑い、
剣先は誘いというわけでもなかろう揺れを小刻みに繰り返す。
何たる醜態。
それで、戦えるつもりなのか。
先日、その口が吐いた大言を、今この口から聞かせてやりたい。
男は、言ったのだ。
――古流、名流ともてはやされるが。
中身は寸止め稽古に形稽古、いずれも実用の役には立たぬ、それでいて見た目は仰々しい、まさしく無用の長物よ。
激しい掛かり稽古を日々繰り返し、実際に打ち合う鍛錬を数多積んでいる我々と、もし勝負することがあれば、たちまち虎は張子と知れよう――
などと。
よくぞ言えたものだ。
竹刀あそびの世界で少々鳴らした程度の分際で。
こうして一皮剥いでみれば、震えるほかに術を持たぬ、無力な小僧の身の程で。
血脈五百年になんなんとする古流の剣への侮辱を、よくも。
剣客は、決して許さぬつもりだった。
打ち合わずして未熟を露呈する若者と対照し、彼は落ち着いている。
全身の関節はいずれも柔軟。
両眼は遠山の目付をなし、若者のみならず周囲の動静も把握している。
中段にとった剣は沈止。
いつ何時でも、必要な剣技を繰り出せる。
当然至極のことであった。
かような折、うろたえ慌てぬためにこそ、長い修行の日々はあったのだから。
心の修養を、決しておろそかにせぬ。
それこそが武道の第一義である。
心を伴なわぬ剣など、無益無用。
そう、――無用の長物。復讐の意志をもって、剣客はその一語を思い浮かべた。
若者が学んでいながらも、今この場でまるで役立てられておらぬ御稽古事こそ、まさしくその言葉に値しよう。
剣道などと名乗ろうと、正体は武道にあらず。
所詮、竹刀遊戯。
心の鍛錬を置き去りに、叩き合いの仕方だけ教えることに、何の意味があろう。
何もないことは、今、若者が証明しているではないか。
竹刀あそびの行き着く先は、この、棒立ちする案山子の姿。
――大根よりも容易く、斬ってくれる。
剣客は、小足で一歩、前へ踏み出した。
間合が狭まる。
と。
すぐさま、若い剣士は刀を振り上げ、打ち込んできた。
呼吸もなにもあったものではない。
竹刀剣道としてさえ、下の下の技。
ただ、近付かれたことに驚き、反射的に打ってしまった一撃だ。
たわけが。
嘲りながら、剣客は余裕を持って受けの形を取った。
敵の打ち込みを跳ね除け、即座に切り返す。
長年修行してきた技の一つを、試すつもりだった。
――とくと味わえ。
貴様が侮った、益体ない形稽古とやらの切れ味を。
頭上を襲う白刃に受け太刀を合わせ、彼は、即座に、
額の皮を浅く切り裂かれた。
重い。
打ち込みが重い。
剣客の予測を、少々越えていた。
受け太刀は攻め太刀を支え切れず、勢い余った敵刃が、彼の額を浅く薙いでいる。
――ぬ。
甘く見過ぎたかと、剣客は舌打ちした。
力任せの下らぬ打ちだが、それだけに、威力はあった。
もう少し深く受けるべきであった。
傷はろくに血も流れぬ浅手。何の支障ともなりはしないが、切り返す余裕は流石にない。
剣客は一歩退いた。
――ふん。今ので仕留めておれば、良かったものを。
結局は子供の遊戯。この辺りが、関の山であろう。
わずかに乱れた呼吸を立て直す。
――次は仕損じぬ。
と、
そう思うよりも先に、敵の剣が再び翻っていた。
斬り下ろしから刃を返し、胴を狙ったすくい上げの一刀。
先と同様の、力任せな一撃。だが、
速い。
刃筋が立っていないことを示す重い風音を伴ないながら、しかし残像も見えぬ速さ。
躱せない。
躱す必要もなかったが。
間合を無視した剣撃は、剣客の右肘に鈍い衝撃を残したのみで、虚空をかすめ過ぎてゆく。
ひやあああ、という間抜けな気合が、遅れ馳せながら耳に聞こえた。
その声は本当に、遅れている。
発声の意味は瞬発力を高めることであるから、動きを起こした後に叫んだところで全く無為。
――この、馬鹿が!
罵りを、剣客は胸に吐いた。
――己の呼吸くらい、測れ! おかげで手筋が読めんわ!
彼の内心を知ってか知らずか。
若者はでたらめな挙措を更に滅茶苦茶にして、今一度の打ちを繰り出す。
もはや足使いすらも錯乱。
右上へ振り切った刀をそのまま手首を返して左下へ切り下げるのに、何故か踏み込む足は左足。
それでは己の足を切りかねない。
その有り得ぬ動きに幻惑されて、剣客の反応はまたしても遅れた。
到底返し技など打ち放てず、辛うじて飛び退りだけする。
鼻の頭が、わずかに割られた。
その痛みを、
感じている暇もない。
斬り損じた剣で己の膝を打ちながら――刃筋の乱れが幸いして切れはしなかったようだが、それでも相当な衝撃だったろうに――委細構わず、若者がすぐさま次の一打を放つ。
剣客は退いて外す以外になかった。
彼の剣は既に乱されつつある。
一度、立て直さねばならない。
そう悟り、後方へ引いたその足が、
何を踏んだのか。
ぬめった感触を覚えるや否や、彼は足裏を大きく滑らせ、尻餅をついていた。
――不覚!
それは即死に値する失敗であったろう。
だがこの時は、敵の未熟が幸いした。
剣客が倒れながらも退いたことでまた剣を躱された若者は、何を思ったか、そのまま続けて虚空を斬り払った。
更にもう一度、風を切る。
前が見えていないのだ。
それからもう一度同じことを繰り返そうとしてようやく気付き、若者がはっと辺りを見回した時には、剣客は当然死地から逃れ、少し離れた場に立ち上がって息を整えていた。
されども、その胸中に安堵などない。
想念が渦巻く。
――おのれ。
――よくもこのような失態を。
――己より優れた剣のためであるなら納得もしようが、稚拙さのために不覚を取らされるとは!
――この恥辱。
――殺しても飽き足らぬ。
――おのれ。
――おのれ。
ふつふつと沸き立つ怒りが、灼熱をもって胃袋を焼く。
それを、
ふ、と。
小さく吐き出した一呼の気で、彼はすべて殺した。
明鏡。
止水。
天心。
地心。
剣客は思い浮かべた。
これまでの日々。
武道に費やしてきた数十年の歳月を。
あれは、何の為にあったか。
――ただ一時のために。
生涯に一度あるともないとも知れぬ、勝負の一瞬のために、半世紀の修行はあったのではないか。
それを自ら擲って如何とする。
彼は眼を見開いた。
元より目蓋を下ろしてなどいない。
開いたのは心の眼。
前を見る。
敵手の姿に囚われず、世界そのものを見る。
遠き山を見るが如し。
遠山の目付。
見える。
敵の挙動が見える。
息を荒げて、じりじりと近づいてくる敵の企図がわかる。
今や武人の心境を取り戻した剣客にとって、それはまさしく手に取るが如く。
――もう、二歩か。
近寄って、一度止まってから、飛び上がり、大振りの一撃を正面に見舞ってくる……な。
向こうも少し、冷静になったと見える。今度は間合も誤るまい――
企図をそう読めば、応ずべき技は、考える刻を要さず彼の脳裏に現れた。
下段に取る。
その形は一見して、敵手の狙う面をことさら無防備に晒すもの。
だが油断より為したことには決して非ず。
むしろ死線を渡る自覚あってこその選択。
背水の剣。
技を誤れば、彼は脳天を打ち割られるであろう。
その覚悟の上。
敵のあけすけな視線が狙う頭部を堂々と見せて、剣客は待つ。
心中の湖面、波ひとつ無し。
荒野にも似て静謐。
怒りは既にない。
嘲りは既にない。
自覚せず持っていた驕りも既にない。
透き通った水の心持。
生死の境を前にして、彼は清々しさを得ていた。
そんな心境とは無縁であろう、眼前の若者に、ふと憐れを催す。
――わしがこれほど気短でなく、おまえがこれほど浅慮でなければ、このようなことにはならなかったであろうに。
後悔は、淡く消える。
もはや遅い。
時が果つ。
若者は立ち止まっていた。
その場で息を一度吐き、吸い直し、そして、大きく振りかぶる。
刀の峰が、背中に触れんほど。
愚かしくも真っ正直な剣。
大足に踏み込みつつ、全力で、叩き下ろされるそれを、
直前。
剣客は、踏み込んでいた。
振りかざされた剣が、打ち下ろされる前の、一瞬の機会。
針の穴を通すような正確さで、その間隙を衝く。
下段から起こし、刃を転じての、胴斬り一閃。
手元の狂いなく。
呼吸の狂いなく。
運足の狂いなく。
完璧な勝機の、
完全な一撃。
半生の修練、今ここに集約されたり。
その剣が、
がちんと。
虚しく、若者の腰骨に弾かれていた。
斬れない。
横薙ぎの一刀は確かにがら空きの腰へ斬り込んだというのに、斬れない。
骨が厚く、硬すぎる。
腰骨の硬さは、知っていたつもりだった。
だが体格で劣る彼には腹よりも腰の方が狙いやすく、そして自分の技量であれば斬れると信じていた。
斬れなかった。
衣服と肉は裂いたが、骨はかすかに削っただけ。
まったく、致命傷ではない。
まったく、取るに足らない。
剣客の全てを込めた一撃。
しかし結果は、若者の愚剣が彼に負わせたものと同程度の浅手。
――む……、
刹那。
力任せの、馬鹿馬鹿しい、棍棒じみた扱いで頭頂に振り下ろされる一撃を待つ最後の刹那。
彼は激昂していた。
しかしそれは、今や、若者に向けられたものではなく。
――無用の長物!!
生涯を投じて歩んだ道を、侮蔑し、憎悪すらして、達人と呼ばれた剣客は冥府への坂を転げ落ちていった。
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正確にいつ頃の話なのかはよくわかりませんが、若い剣道家と古流の達人が真剣で立ち合った結果、剣道家が達人をなます斬りにした……という出来事は、実際にあったのだそうで。
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