――餓鬼か。
最後に対峙してきた相手を一瞥し、男は溜息をついた。
――餓鬼を斬るのは、嫌だなァ。
***
少年は満身の憎悪を込めて男を睨んだ。
大柄な、尾羽打ち枯らした浪人姿の、その男。
名などは今更、どうでも良い。
奴は父を殺した男。
その首を取らねば家の存続もおぼつかぬ、仇討ちの相手。
少年にとってはそれがすべてだ。
討たねばならない。何を置いても。
既に、助太刀の叔父二人は斃された。
少年はただ一人だ。
しかしそのようなこと、無論、進退を定めるに何の関わりもない。
討たねばならぬ敵がいるのなら、討つしかないのだ。
少年とて、侍の子である。
武士の面目がかかるのであれば、勝てぬからとか、自分が子供であるからとか、そんな理由で敵に背を向けてはならぬことを良く知っている。
そも逃げようとて、少年の憤怒がそれを許さない。
厳しい父であった。
強い父であった。
ほんの時折、優しい父でもあった。
幼心にも、誇るに足る父であった。
男は、その父を殺したのだ。
否、父だけではない。二人の叔父も父に似て、卑しからぬ侍であった。仇討ちの道中、二人は決して甘い顔を見せたりはしなかったが、何それとなく陰日向に助けてくれていたことを、少年は知っている。その叔父達も男は殺した。たった今、彼の目の前で。
男に対する恐怖はある。無かろうはずがない。練達の剣者として知られた父を、叔父二人を、刀の錆にした男だ。少年ごときは羽虫のようなものであろう。
しかし怒りがそんな思いは踏み潰す。
許せない。
許せない。
こんな男を許してなるものか。
父が何をしたというのだ。
殺されなくてはならぬ理由が父にあったというのか。
そんなはずはない。
誰もが父の死を望んでなどいなかった。
誰もが父の死を悼み悲嘆に暮れた。
父は多くの人々に必要とされていた。
父は生きるべきだった。叔父達とてそうだ。
だのにこの男は殺した。
ならばそれは非道。外道であり無道。
少年は男を憎んだ。
憎しみという言葉も知らぬまま憎んだ。
純粋な憎悪。
生粋の憤怒。
他の何もかもを置き去りにして、純一の激情が彼を衝き動かす。
少年は自分が敗れるとも思っていなかった。
敵の邪悪を憎む。
己の正義を信ずる。
ならば己は決して負けてはならないと思う。
……士は民の上に立つものである。故に、民の模範とならねばならぬ。
少年は父からそう聞かされてきた。
悪は討たねば、模範とならない。
正義が敗れれば、民は正義を信じなくなろう。
だから勝つ。勝たねばならない。
しかし少年は、その信念が勝利をもたらすと信じているのではなかった。
――気構えだけでは戦いに勝てぬ。
そのような思い込みはむしろ、生前の父が戒めるところであったから。
教えを、少年は忘れてはいなかった。
――戦場に立つには気構えが要る。
だが敵を倒すのは気構えでなく、鍛えた業にほかならぬ。
刀を、切先が相手の喉笛を指す正眼にとる。
基本にして正道の構。
応えるように、浪人者も正眼をとった。
対称の構。
こうなれば、両者の差は一目にして瞭然のもの。
体の大きさが違う。
少年の頭頂は男の胸にも届かぬ。
腕の太さが違う。
あたかも大木と枯れ枝の如く。
得物の脅威も違う。
男のだんびらは兜とて斬り割れようが、少年の細身は藁束さえ断てるかどうか。
あまりにも大きな隔絶。
話にもならぬ優劣。
なればこそ、
少年は勝利を確信していた。
――お前がもし、誰かと戦わねばならなくなった時は、
惨死を遂げるほんの数日前。
今にして思えば自らの運命を悟っていたかのように、父はそんな話を少年に聞かせたのだ。
――その相手はきっと大人で、お前よりあらゆる意味で強い侍であろう。
相手に比べればお前はずっと小さく、力も弱く、技も貧しい。
だが、武の術は奥深きもの。
小さく弱いからこそ勝つという法もあるのだと知れ。
正眼の剣先を不動に保ち、少年は待った。
乱してはならない。
心身が動揺していては勝機を逃す。
必ず訪れる勝機を。
――強い相手の剣よりも、弱いお前の剣を先に届かせる法がある。
三つの利を生かせば、それができる。
三つの利。
そうだ。
自分には利が三つもある。
この生死の境、自分こそがはるかに有利なのだ。
少年は一つ一つ、それを思い起こした。
――その一つは、相手の気構えである。
敵はあまりに強く、お前はあまりに弱いために、敵は到底決死の覚悟で勝負に臨むことなど出来ないであろう。
油断からにせよ、気後れからにせよ、必ずその剣は鈍る。
浪人者は、一応構えこそとったものの、戦意旺盛という風ではなかった。
しかんだ顔付きの中に気乗りしない色を見え隠れさせている。
心気充実の様相とは言い難い。
まさか自身が今、敗北の淵にいるなどとは、夢だに考えていないに違いなかろう。
――ひとつは、お前の小さな体である。
敵はお前ごときを相手とするのに小細工など用いまい。ただ剣を振り上げ、一刀のもとに両断せんとして来よう。
しかしお前の位置が低いために、その一撃はお前に届くまで時間が掛かるのだ。
高い位置にあるものを斬る時ほど刀は大きく振り上げねばならぬが、低い位置にあるものを斬るならば低さに応じてどこまでも振りを小さくできるかといえば、そんなことはない。標的がどれほど小さかろうと、斬手の体格によって決まるある程度の高さまでは振りかぶらねば、充分な力を乗せて斬り下げることはできない。必然、ある一定の高さに満たない相手を斬る際は、そうでない相手を斬る場合より、刀を振る距離が長くなり、命中までに要する時間が増す結果となる。
お前の小さな体は、敵の剣撃を遅らせるのだ。
少年は男を見上げた。
武士としても充分に大きいその体は、彼からみれば雲をつく巨人のよう。
しかしその大柄さは、今や少年に何の威圧も与えない。
――最後の一つは、お前の速さである。
切先を半瞬でも早く敵に触れさせることを考えよ。
敵の遅れる剣に対し、お前は最速の剣を扱うのだ。
それには刺突が良いのだが、技量未熟の者が必殺を期して喉を狙うのは無謀というもの。
胸や腹なら当てやすいが、一撃で仕留められるとは限らぬ上、その後が続かぬ。敵が死なず、お前の刀が肉に絡まれて抜けなくなってしまえば、そこで終わりだ。
あるいは敵の出鼻に小手をくれるのも理だが、お前の腕ではやはり難しかろう。
といって、脳天から梨割にするだの、袈裟懸けで両断するだのと考えてはならぬ。それこそお前には逆立ちしても成せぬ真似。
少年は己の弱さを自覚した。
未熟な彼が勝つ道は限られているのだ。
暗く細い一本の道をゆくほかに、勝利へ行き着く術はない。
だが。その道を踏み誤らねば、必ず。
――下方より突き上げ、顔面をかすめ斬りにせよ。
決して、大きく振りかぶってはならぬ。刺突のように腕を伸ばし、手先の動きだけで敵の顔を撫で斬るのだ。この一撃は速さのみが肝要と知れ。
当然、それだけでは敵を倒せぬ。
だが怯む。
顔を切られてうろたえずにいられる者はいない。
よほどの者でも数瞬は、我を失うであろう。
その隙に止めを差せ。
さすれば、勝てる。
それは業。
勝つための業。
父から伝えられたもの。
父はきっと、祖父から伝えられたもの。
遡れば戦国の世まで行き着くのであろうか。
だがおそらく、これまで実際に使われる機会はなかったことだろう。
脆弱な子供が強大な敵手に挑むための特異な術法。
それは今この時、少年の為にあった。
彼のために用意され伝えられた業であった。
ならば、何をか恐れよう。
彼は勝つ。
先祖より伝来せし一つの武が、少年をして大敵に勝利させる。
――勝機を逃すな。
お前からみだりに仕掛けてはならぬ。
静かに、敵の動きを待て。
少年は待った。
父の教えを、祖の教えをひたすら忠実に守り。
微動さえせず、勝機の訪れを待った。
――敵が刀を振り上げたとき、
正面が空き、無防備となる、
男の剣が遂に動く。
正中線を守っていた切先が、いずこかへ消える。
狙うべき顔面がさらけ出される。
――その機ぞ!
「いああああああああ!!!」
裂帛の気合を、少年は上げた。
跳躍する。
全身の撥条という撥条を使い。腕を真っ直ぐに突き出して。
目指すは一点。
憎んでも余りある男の顔まで、剣先を届かせる。
そして、
すべての憤怒を込めて、
引き裂く――
熱い感覚が、少年の全身に満ちた。
***
……我より小さき相手の頭は常より遠くにあるものなれば、上段より切り下げるは愚策なり。下段より手首ないし股を切り上げるべきなり。我下段にとれば、小さき者の股座は常より近くにあり。
***
――ああ、まったく。
中段の刀を下段に落とすや、手首を返して刃を上向かせ、打ち込んできた少年の股間を迎え撃ちに切り上げて。男は予想と違わぬ酷い感触に舌打ちをこぼした。
流儀の教え通りに技を使い、正面を狙ったらしい対手の先を制したものの、この股座というやつ、斬り応えのまずさといったらない。
睾丸から下腹の柔らかい肉を裂く愉悦はわずかな間のこと、忽ち堅く入り組んだ股の骨に刃先を噛まれてしまう。
大上段から袈裟懸けに斬り下ろし、肉体を二つに断ち割る爽快さなどとはまるで無縁。
少年が剣を放り投げ、獣じみた狂乱の声を上げながら、股に食い込む刀身をつかんで押し外そうと足掻く。構わず刀を引き斬って少年の恥骨を削り取り、やはりろくでもない手応えを得て彼は眉根をたわめた。
苛立たしく、ぼやく。
――だから、餓鬼を斬るのは嫌なんだ。気色わりぃ。
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体格の小柄な子供や女性と戦う場合、ついつい威圧的に上段をとってしまいがちですが、合理性の面からみると下段にとった方が良いとも考えられるようです。
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