彼は上意討ちをおこなう。
ある時、主君が一人の臣を広間へ呼ぶ。
呼ばれた者は主君の御前に平伏し、許されるまでそのままでいる。
主君の傍らに控え居る彼は、手の一振りを受けて立ち上がり、家臣に向かって静かに駆け寄る。
平伏する頭の一歩手前で立ち止まり、抜刀。
片膝を落としつつ踏み込んで、頭を唐竹に斬り割る。
それが彼の役目。
命を受けしことは十数度、而して仕損じたることは一度と無し。
今日もまた一度、成功の数を重ねる。
若い男であった。
不器用そうな男であった。
平伏した姿の後ろ頭からでさえ、真っ直ぐに前を見ることしか知らぬ双眼が窺えるようであった。
その頭を、今日は割る。
彼は主の指図を待った。
彼が討殺に慣れてきているように、主君も討殺を命じることに慣れてきている。
最初は、興奮しながらも迷い、何度もためらってから手を振り下ろしていたのが、今は薄笑いと共にぞんざいな手振りの合図をすぐ下せるようになっている。
それが今日は、遅い。
眼を前に据えたまま、焦点だけを横へずらして主を窺うと、主は、彼の方をちらりちらりと覗いている様子であった。
彼が何事か、するのを待っているらしい。
だが彼がすべきは、合図を受けて頭を一つ斬り割ることだけだ。
他に、すべきことなどない。
彼が黙して居ると、主はやがて飽きたようであった。
彼に投げていた視線を、若い家臣へ向ける。
平伏したまま暫時待たされる、奇異な呼び出しの意味は、今や家中に知らぬ者とてない。
伏した姿が、次第に落ち着きを失い、動揺に震え出すのを見ることは、主の楽しむところであるらしかった。
しかし、今日の男は、主を喜ばせていない。
最前より徹して、その姿は端然としており、屈従を示す姿勢でありながら奇妙に侵し難くさえある。
主君が不興げに鼻を鳴らした。
殊更音を殺さず、指先で苛立たしげに脇息を打つのは、己の死地を理解しておらぬのかもしれぬ男への暗号であったか。
時が移る。
何事も起きない。
彼は前を見据えたまま。
若い臣は平伏したまま、微動たりとしない。
どうにも主には、それが面白くなくてたまらぬようであった。
もうよいとばかり、投げやりに、その手がようやく振り下ろされる。
腰を持ち上げて、彼は立ち上がった。
走り出す。
摺り足で、常に一直線上に足を寄せるようにして駆けるのが作法。
無音かつ迅速に走り寄る。
数秒とは要さない。
正確に一歩の間を置いて、足を止める。
左手で鯉口を切り、右手を柄へ放ち、抜刀。
刀身が鞘走る。
よく油を差された刀の進発は、やはり無音。
粛々と、虚空を刃が撫で、鋩子が直上を指す。
天の位。
ここより、斬り下ろす。
彼は標的を見た。
平礼する頭はいまだ不動。
しかし。
手が伸びている。
左手が、脇差の鞘へ。
鯉口をつかんで、押し回す。
刃が下を向いた形。
その柄へ、右手が飛ぶ。
――おお。
刹那。
彼は、口元をほころばせた。
――覚えていたか、七郎兵衛。
それは、彼が教えたもの。
流儀伝承のため伝えしも、主に対して牙剥くためのものなれば、表に出すこと決して禁じた秘奥の技。
平伏より繰り出す逆臣の太刀。
――その太刀、願わくば、殿に向けたいのであろう。
上段より一刀を打ち下ろしながら。彼は声なく、囁いていた。
――だが許せよ。
士として、その刃を主に届かすわけにはゆかぬ。
この身を斬って、無念を呑め。
噴き上がる炎のような抜き打ちを放ちながら。若い臣が、囁き返すのを。彼は聞き取った気がした。
――心得たり。父上。
彼は地割の一刀を振り下ろす。
――上意討作法 颪
臣は破天の一刀を打ち上げる。
――返忠作法 野火
彼は臣の頭蓋を断ち割り、
臣は彼の臓腑を切り裂き、
二人、相果てた。
***
徳川三代将軍家光。
かの人物は若年の折、よく癇癖に任せて側近を死なせたという。
だが、長ずるにつれて英明の質を顕したため、後世の史家は彼を名君の一人に列し、その功績を称えた。
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